私のオルタナティブ

 以前から利用していたTwitterのアカウントの利用をしばらく休止していた。約二週間は覗かなかったのだが、先日、久方ぶりにタイムラインを閲覧すると、何事もなく呟きをしているフォロワーがそこにはいた。

 そんなことは当然であり、気にする程ではない。ただ、その時実感したのが、別に私と交流しなくとも、私以外の誰かと話をして生活をしていけるという事実である。

 『疫病神のキセキサポート』という小説に次のような文言がある。

会社には替えのきかない人間などいない。その人でなければできない仕事などない。誰かがいなくなっても、また誰かがやってきて、そうして回ってゆくのだ。

会社というのは複雑なアルゴリズムに似ている。誰かが仕事を外部から入力し、それに基づいて社内で適切な処理を行い、最後に結果を客へ出力する。社内でそれぞれの処理を担当するのが誰であろうと構わない。サインとシンボルの操作を適切に行える人物という要件さえ満たせば問題ない。だから「替えのきかない人間などいない」のである。

 それと同じようなことが私が築いてきたSNSの人間関係でも起きていた。交流する相手が私でなくとも気にならない。そういう私的な場面においても、自分は誰かによって代替可能な、その程度しか存在意義がないのである。

 私生活における繋がりでは、基本的には特定の誰かであることが要求される。自分の親を考えてみるとわかるだろう。親なんて自分で選んだわけではない。偶然に親子関係が築かれている。だが相当な出来事がない限り自分の親を他の人物で代用することなど考えられない。適当にそこらへんのおじさんやおばさんをとっ捕まえて親にする、とは普通しないだろう。友人も似たようなものだ。単に友人の役を任せれば誰でも構わないわけではない。理由があろうがなかろうが、友人は友人である。時間経過によって関係が消滅する場合もあるだろうが、それでも記憶の中には残る。

 私はSNSで繋がっていた人物らとはそのような関係を築けなかった。ただ話し相手役を任されていただけに過ぎない。それを担当するのは、演劇の役者と同じく、果たす能力があるのなら誰であろうと構わないのだ。

 だとしたら、私は他の誰かにとって、どのような人物として扱われているのだろう。私は先に代替可能な程度の存在意義といった。機械の部品とさして変わらない。そこに人間性はゼロである。不要になれば簡単に捨てられる。それでは単なる消耗品だ。だがその程度がお似合いな気もする。

 私のフォロワーが頻りに呟く言葉がある。「誰も自分を愛してくれないのなら、せめて自分だけでも愛してあげなきゃ、可哀想だろう」。私風に書き換えるなら、次のようになる。「誰もが自分を使い潰して捨て行くのなら、せめて自分だけでも自分を拾ってあげなきゃ、可哀想だろう」と。

 この言葉に倣い、私は私を代替不可能な存在だとみなしてに生きていく。そうでなければ、可哀そうではないか。

 

 

 

名前(再掲)

 他人の名前は可能な限り呼びたくない。私はそう考えているのだが、世の中はそうでもないらしい。SNSを覗いてみるといい、そこには何の気兼ねもなく「○○さんおはようございます」と呟き、「××調子どうよ?」とリプライを送る人々に溢れている。別に本名でなくともよい。あだ名でもアカウント名でも、広く捉えればIDでも同じである。しかし私はそれすらしたくない。
 「名前を呼びたい」と考える人物に小池昌代が居る。彼女は自らの随筆「背・背なか・背後」においてこう記している。


待ち合わせ場所にすでに相手が到着していて、しかもそのひとが後ろ向きような場合、一瞬、どんなふうに声をかけようかと、迷いながら背後からそのひとに近づいていく。──簡単なのは、名前を呼ぶことだ。こうしてみると、名前というのは、そのひとを呼び出す強力な呪文みたいなものである。わたしは会話のなかで、対面するひとの名前を呼ばずして、そのひとと会話を進めることに、いつも居心地の悪い思いを持つ。あなたという二人称はあるけれども、固有名詞で呼びかけずにはいられない。相手のひとにも、名を呼んで欲しい。(注・ダッシュは引用者による省略)


つまり、誰かに気付いてもらうためには名前を呼んで、自らの存在を言葉で示す必要がある、というのだ₍₁₎。小池はここで「強力な呪文」と書き、「相手にも名前を呼んで欲しい」と宣言している。少なくとも、気分の良い行為として考えているのは間違いないだろう。
 しかし、私としては、どうもこれが良く思えない。小池は背後から名前を呼ぶとき、こう考えて発言しているのだろう。「あなたのことを知っている私はここに居ますよ」と。ある種の表明文だ。
 私の考え方は違う。背後から──対面で会話をしている時でもそうだが──名前を呼ぶ時に意味しているのは「こちらを見ろ」である。命令形なのだ。名前を呼ぶ側は呼ばれる側より上の立場に居る。会話の中で瞬間的に上下関係を構築できるのが、名前を呼ぶ行為である。だから、私の考えを用いて小池の「対面するひとの名前を呼ばずして、そのひとと会話を進めることに、いつも居心地の悪い思いを持つ」を恣意的に解釈するなら「対面する相手の名前を呼び、自分に注目しろと命令をして上下関係を構築せずに会話を進めることは好きではない」となる。
 SNSにおいては名前を呼ぶと──ここでは特にIDを考えているが──相手に通知が行く。これは呼び出しだ。気にせずに使用しているのだろうが、反応しろ、会話を始めろと言外に圧力をかけている。LINEなどで既読無視を行うのはいけないとよく言われるが、それは名前を呼ぶ側の命令に背いているからだ。
 もちろん、この上下関係は動的なものだ。会話の中で片方だけが名前を呼ばないことなどありえないのだから、入れ替わりながら会話が進んでいく。また、呼ばれても無視してしまえば上下関係を崩壊させることができる。だが、いずれにしても、お互いの関係に緊張を及ぼす。名前を呼ばれた側はすぐに言葉を返す必要があり、そうしなければ呼んだ側が不安や怒りに襲われる。それは関係の崩壊であり、信頼の欠如を起こす。
 再度繰り返そう、他人の名前は可能な限り呼びたくない。加えるならば、呼ばれたくもない。それは、私の精神が他人に直接影響し、干渉されるのを好としないからである。


(1)小池は最後に「言葉というものを一瞬放棄しなければならないのだろうか」と書いている。ただしこれは、名前を呼ばずに相手に気付いてもらうためには物理的な方法を用いるのが確実である、という文に続く言葉である。

 

※以前小説家になろうで公開していた文章の再掲。元記事のURLは下記の通りであるが、既に削除済みであり、退会処理も行われているため、閲覧は不可。

https://ncode.syosetu.com/n7809gr/

最初の記事と一つの宣言

 私は自己顕示欲が強い。それこそブログを始める程度には。だがその一方で、誰にも目を向けられない不在表明を好む。

 誰かに自分を認識してもらう行為には恐怖を感じる。反応を貰えたなら、それこそ恥を感じて動けなくなってしまうだろう。他者とは常に私を憎悪の目線で突き刺し、精神に脅威を及ぼす異形の存在である。

 それならこんな公開ブログなど書く必要はどこにもない。だが、それでも、うずまく欲望が誰かに見てもらいたいと思わせてしまう。

 インターネットは常に広大だ。私は誰かに見てもらいたいと思いながら、誰にも見られないことを期待する文章をここに綴っていく。ここに綴る予定の文章は、誰でも閲覧できる公的な表現でありながら、自分の満足だけを求める私的な表現でもある、意図的な公私混同をした半私半公表現の集積である。