名前(再掲)

 他人の名前は可能な限り呼びたくない。私はそう考えているのだが、世の中はそうでもないらしい。SNSを覗いてみるといい、そこには何の気兼ねもなく「○○さんおはようございます」と呟き、「××調子どうよ?」とリプライを送る人々に溢れている。別に本名でなくともよい。あだ名でもアカウント名でも、広く捉えればIDでも同じである。しかし私はそれすらしたくない。
 「名前を呼びたい」と考える人物に小池昌代が居る。彼女は自らの随筆「背・背なか・背後」においてこう記している。


待ち合わせ場所にすでに相手が到着していて、しかもそのひとが後ろ向きような場合、一瞬、どんなふうに声をかけようかと、迷いながら背後からそのひとに近づいていく。──簡単なのは、名前を呼ぶことだ。こうしてみると、名前というのは、そのひとを呼び出す強力な呪文みたいなものである。わたしは会話のなかで、対面するひとの名前を呼ばずして、そのひとと会話を進めることに、いつも居心地の悪い思いを持つ。あなたという二人称はあるけれども、固有名詞で呼びかけずにはいられない。相手のひとにも、名を呼んで欲しい。(注・ダッシュは引用者による省略)


つまり、誰かに気付いてもらうためには名前を呼んで、自らの存在を言葉で示す必要がある、というのだ₍₁₎。小池はここで「強力な呪文」と書き、「相手にも名前を呼んで欲しい」と宣言している。少なくとも、気分の良い行為として考えているのは間違いないだろう。
 しかし、私としては、どうもこれが良く思えない。小池は背後から名前を呼ぶとき、こう考えて発言しているのだろう。「あなたのことを知っている私はここに居ますよ」と。ある種の表明文だ。
 私の考え方は違う。背後から──対面で会話をしている時でもそうだが──名前を呼ぶ時に意味しているのは「こちらを見ろ」である。命令形なのだ。名前を呼ぶ側は呼ばれる側より上の立場に居る。会話の中で瞬間的に上下関係を構築できるのが、名前を呼ぶ行為である。だから、私の考えを用いて小池の「対面するひとの名前を呼ばずして、そのひとと会話を進めることに、いつも居心地の悪い思いを持つ」を恣意的に解釈するなら「対面する相手の名前を呼び、自分に注目しろと命令をして上下関係を構築せずに会話を進めることは好きではない」となる。
 SNSにおいては名前を呼ぶと──ここでは特にIDを考えているが──相手に通知が行く。これは呼び出しだ。気にせずに使用しているのだろうが、反応しろ、会話を始めろと言外に圧力をかけている。LINEなどで既読無視を行うのはいけないとよく言われるが、それは名前を呼ぶ側の命令に背いているからだ。
 もちろん、この上下関係は動的なものだ。会話の中で片方だけが名前を呼ばないことなどありえないのだから、入れ替わりながら会話が進んでいく。また、呼ばれても無視してしまえば上下関係を崩壊させることができる。だが、いずれにしても、お互いの関係に緊張を及ぼす。名前を呼ばれた側はすぐに言葉を返す必要があり、そうしなければ呼んだ側が不安や怒りに襲われる。それは関係の崩壊であり、信頼の欠如を起こす。
 再度繰り返そう、他人の名前は可能な限り呼びたくない。加えるならば、呼ばれたくもない。それは、私の精神が他人に直接影響し、干渉されるのを好としないからである。


(1)小池は最後に「言葉というものを一瞬放棄しなければならないのだろうか」と書いている。ただしこれは、名前を呼ばずに相手に気付いてもらうためには物理的な方法を用いるのが確実である、という文に続く言葉である。

 

※以前小説家になろうで公開していた文章の再掲。元記事のURLは下記の通りであるが、既に削除済みであり、退会処理も行われているため、閲覧は不可。

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